第9回毎日パソコン入力コンクール 6月大会 第5部 和文A 中学生(文字数2,700字程度) 光村図書 平成19年度中学校国語科用「国語 3」より引用 『生き物として生きる』 中村 桂子  わたしたちの日常生活に入り込んでいる機械を、思いつくままに挙げてみよう。電気冷蔵庫、テレビジョン、空調機、自動車、コンピュータ、携帯電話……まだまだたくさんある。  ここで、おじいさんやおばあさんに子供のころのことを尋ねてみれば、この中のどれ一つとして身近にはなかったという答えが返ってくるだろう。コンピュータや携帯電話にいたっては、お父さんやお母さんの子供時代にさえ、家庭にはなかったはずである。けれども、今ではこのような便利な機械のない生活など考えられなくなっている。わたしたちは、こうした機械による便利さを享受して現代社会を生きている。  便利というのは、思いどおりのことができること、しかもそれが速くできるということである。例えば自動車があれば、休日に家族で好きな場所に遊びに行ける。携帯電話を持っていれば、いつでも友達と話したり、メールを交換したりできる。空調機のスイッチを入れれば、真冬でも暖かい部屋で暮らすことができる。  このような機械がなければどんなに大変かを考えてみよう。木を燃やしていた時代は、燃料を集めるのに労力が必要だった。石油ストーブが登場して少し楽になったが、燃料を入れる手間がかかり、温度調節も面倒であった。  そこで、便利にするのはよいことだと多くの人が考えるようになり、次々に新種の機械を作り出していった。そしてついには、その考え方を生き物にも向けるようになった。生き物は、機械のように人間が設計して作るものではなく、生まれてくるものである。けれども、機械を思いどおりに作ることに慣れたわたしたちは、生き物に対しても「作る」という考え方をもち始めたのである。  野菜を例に考えてみよう。苗を植え、毎日畑に出て水をやり、肥料を与えたり消毒をしたりする。そうした手間をかけることで、おいしい野菜ができる。機械のように設計図をかき、部品を整えて組み立てるのではない。生き物である野菜が「育つ」のである。ところがわたしたちは、「野菜を作る」といういい方をする。「作る」という言葉には、思いどおりになるとか、思いどおりにしたいという気持ちが入っている。  例えば、トマトは夏の野菜である。わたしが子供のころは、暑い日差しの中で遊んで帰ってきた子供たちが、水で冷やした熟れたトマトにかぶりつくのが夏の風景の一つであった。とてもおいしいし、ビタミンも豊富で、彩りもきれいなので、これが一年中あればよいのにと考える人が出てきてもおかしくはない。便利をよしとする社会の中で、そうした考えが強くなってくるのは当然かもしれない。その結果、一年中トマトが店先に並ぶようになった。  これはトマトに限ったことではない。今では、多くの野菜が本来の季節を越えて店頭に並べられるようになった。それらの中には、ハウスとよばれる温室で育てられているものもある。そこでは、温度を一定に保つために重油が使われるなど、多くのエネルギーが費やされていることが多い。しかし、そこまで考えて野菜を食べている人はほとんどいないだろう。  近年、何事も思いどおりにしようという考え方が、人間にまで向けられるようになった。赤ちゃんの誕生を例に考えてみると、以前は「子供を授かる」といういい方が多く使われていたが、今では「子供を作る」というのが普通になってきた。そして、いつごろ、何人の子供をもつかという計画を立て、思いどおりに子供を産もうとする考えが広まった。  地球上には、増え続ける人口を抑制しなければならない地域もあり、計画出産という考え方は重要である。また、子供が欲しいのになかなか生まれないという人を援助することも求められるので、誕生にかかわる医療技術は大きく進歩した。  先に、生き物は機械のように設計して作るものではないと述べたが、人間ももちろん生き物であり、設計図をかいて部品を集め、作り出すものでないことはだれもが知っている。しかし、「子供を作る」といっているうちに、男の子と女の子を産み分けたいとか、生まれてくる子供の髪の毛や目の色を望みどおりにしたいという思いが生じ、その願いにこたえるために医療技術を使うことになったらどうであろうか。  人間が誕生するまでに、脳や心臓などをもつ複雑な体がどのように形作られていくのかはまだよくわかっていない。ということは、安易に人間が手を加えることによって、予測できない結果が生まれる危険性もあるということになる。思いどおりにしたいという気持ちには歯止めをかける必要がある。  人間を機械のようにとらえる考え方の背景には、わたしたちが遺伝子についての知識をもつようになったことがあるのだと思う。遺伝子を設計図とみて、生き物はその設計図に従って作られているという考え方をもつ人が出てきたのだ。  例えば、機械の設計図ならば、そのとおりに作れば同じ機械を幾つでも作ることができる。しかし、遺伝子はそうした意味での設計図ではない。何かになぞらえるとすれば、料理のレシピがよいかもしれない。カレーライスは、肉とたまねぎとカレー粉を基本にしているが、塩やこしょうの入れ方はさまざま、火加減の違いなどもあって、いろいろな味のカレーができる。生き物も同じで、人間の基本を決める遺伝子はあるが、それによって背の高さなどが厳密に決まるわけではない。体が形作られるときの環境の違いで、遺伝子の働きも変わってくる。  生き物は、遺伝子という基本を決めるものを共通にもちながら、一つ一つが皆違ってできるような仕組みになっているのであり、そこに意味がある。それを思いどおりにしようとするならば必ず無理が出てくるのである。  わたしたちは、便利な機械を作ることに慣れてきたために、生き物についても「作る」という考え方を当てはめ、なんでも思いどおりにしたいと思い、それができるのではないかと期待した。しかし、生き物は思いどおりになるものではないと考えたほうがよいようだ。確かに便利になるのはありがたいことだけれど、便利さだけを求め、それが最もよいことだと考え、生き物にまでそれを当てはめようとするのは間違っているのではないだろうか。  生き物には、思いどおりにならないところがたくさんある。不便なところのあるのが生き物だといってもよいだろう。そうだとすれば、わたしたちが便利さだけを追求していくのは、生き物らしさを捨てるということにもなる。生き物は、三十八億年ほど前の生命の起源以来、長い長い歴史をもっており、そこには生き物だけがもつ特有の仕組みがあるのだ。人間もその一つなのだから、生き物をよく見つめ、生き物として生きる暮らし方を考える必要があるのだと思う。